社会の窓
昔、「社会の窓」という言葉がありました。その生活に根ざした意味から少し離れて、個人の視点で「社会の窓」を捉えると、それは断片的に社会を覗く枠であるということができます。
それでは個人が覗く「社会の窓」とは、どのようなものでしょうか。個人と社会との境界線に社会を覗く窓があるとすれば、それは新聞。テレビ。インターネット、スマートフォンの画面かもしれません。四角い枠の中に、社会そのものをテキストや画像、動画として垣間見ることができます。
ところで「窓」には、中から外を見る役割と、外から中を見る役割があります。それでは個人にとって外側の世界である社会の側から、その「社会の窓」を見る時、そこにはどのような個人の姿が映るのでしょうか。それは他でもない個人の無限の可能性を秘めた精神、思想の片鱗ではないでしょうか。しかし個人に宿る精神や思想は、普段には社会の側から見ることができません。それが見えるのは、個人が社会に対して言葉を発する時です。それは現代においてはペンを使って、キーボードをたたいて、画面を指でなぞって、文字を通して発せられるものでもあります。またすべての感覚を活かして表現する芸術をもって発せられるものかもしれません。
いずれにしても原初的には個人が口を開くことによって、意識するしないに関わらず、その内に秘めたる精神の片鱗を社会に向かって表すことになります。つまり個人が言葉を発する時にこそ社会の側から個人を覗き見ることができる「社会の窓」が開かれると言えます。
さて、ここまで話を進めて来ましたが、この「個人が口を開くことによって『社会の窓』が開かれる」ということになぞらえて、ズボンの口が開いている場合をさして「社会の窓が開いている」と言うのでしょうか…。答えは違います。それはラジオ番組の名前に由来するとされています。しかし思い至ったことがあります。それは、社会の側から見た時には、個人の口が開かれてこそ「社会の窓」が開くということです。もし口が固く閉ざされたままであれば、そこに窓は存在しないと思います。
チャックも同じではないでしょうか。閉まっている時には、それは「チャック」であると思います。それは社会に対して開かれている時だけ、「社会の窓が開いている」と言うことができると思います。それにしても、黙っていることを「口にチャック」といいます。案外、この口を開くことと「社会の窓」とは無関係でもなさそうです。