送り火に思うこと
8月16日の夜、大文字五山送り火がお盆に帰って来られた先人のお精霊を送るための火として京都の夜空に浮かび上がる時、私はそれをどう受け止めるべきでしょうか。
先人を敬うという気持ちは自然であり、毎年、京都で慰霊の行事として、送り火を欠かさない努力が続けられている結果、五山に火がともされるのですが、今回あらためて先人の霊を敬うとは、いったいどういうことなのかを考えてみました。
人が亡くなってしまうと、土に帰し、それでおしまいということに間違いはないのです。 私が、過去から考えて来たことは、人が、生理的欲求充足のために生きている限り、死とはその生理的欲求そのものの終わりであって、その充足のための行動をしなくても済むかぎり、もはやそこに生きる目的も終了するので、それでよいということです。
しかし、生きている人は、死をおそれます。それは、まさに生きているからであり、死とは、忘却、無、であり、今自分が人間関係を築き上げている人たちから忘れ去られる孤独として死を受け止めてしまうからではないかとも考えて来ました。
私は、先人を敬うことは、その先人を大切に思う自然な感情であると思います。そして死後もなお、配偶者や子孫によって大切に思い返してもらえるという死は、孤独ではありません。だからこそ今を生きている私たちにとっても、先人を敬うことは死が温かく見守られているものという意識を自らが持つために必要な行為でもあると考えて来たのです。
しかし、今回五山を回って感じたことは、それだけではなかったのでした。
例えば、人は、朝起きて生活が始まり、仕事をして食事をして夜眠りにつくことを一生の間繰り返してゆきます。しかし、もしもこの連続を、朝生まれて、夜死んでいくことだと捉えたらどうでしょうか。毎日、生まれてそして毎日死んでいく。今日の自分と、明日の自分は同じではないと考える時、それは、人の一生というものが、たくさんの人の人生の連続という意味において人類における歴史に似ているようにも思えて来ます。
昨日の私と今日の私が同じであるのは、朝、目覚めた時、私が昨日からの記憶を持ち、昨日までの社会での位置を保っているからなのですが、これが人類というひとかたまりのものに置き換えて考えても、私たち一人一人は社会的なしくみの中で、大人になるまでに過去を学び、さまざまな知識を吸収することによって、先人たちの築き上げた知的生産活動の成果を自らの脳に読み込んでいるといえます。そして、それぞれその社会的な位置づけは違うとしても、全体として見れば、さまざまな過去からの制約を引きずった社会に存在していることになります。そこで私たち一人一人が過去に生きて来た人たちの続きに、人類としての行動を引き継いで行くことになるといえるのです。人ひとりの死は人類として見れば、一晩寝て、翌朝目覚めることのようなものであり、その人類の活動を必ず引き継いでいく人が次に生まれて来るという、そういう事実が見えてきました。
つまり、先人とは人類的視点に立てば、昨日の自分であると見ることもできます。
私たちの歴史は、いくさや、戦争によって多くの犠牲者をともなって現代まで続いてきました。しかし、送り火はその過去を慰霊するためにも毎年行われています。私たちは過去を学び「昨日の自分」を正しく振り返る必要があるといえます。そして少なくとも、再び戦争の惨禍が起こることのないように行動しなければならないと思います。特にこの京都で、送り火に囲まれている私たちの意識としては、やはり戦争が起こることのないように行動して行く必要があると思います。
そして、私は今日を生きる人類の一構成部分としてしっかりと地に足をつけて行動し、社会の役に立つことで生きて行きたいものです。そして、我が子にバトンを継いでいくわけですが、明日の人類にしっかりと、歴史の続きを託して行かなければと考えたところです。それまでにも、私自身がどう生きるかが問われる人生でもあるのですが。
送り火が、お盆に帰ってきた先人のお精霊を送るための火であると表現されます。何が、帰ってきて、どこに送るのでしょうか。
私なりの解釈では、先人がその時代に得た、さまざまな知識や経験を持って、精一杯生きたこと。その知識や経験を私たちが学ぶとき、私たちの心の中にその時代の先人の思いが再読み込みされて、先人の死によって止まった歴史の歯車の続きが回転し始めるという、そういうイメージを持つことができます。つまり先人の思いが私たちの心に、形を変えて再帰するということ。そして、私たちの心にすとんと落ちて、私たちの生きる指針になること。それが帰ってゆくということかもしれません。過去に人類の最前線にいた先人の心にあり、生きる指針となっていたものが、私たちが学ぶならば、再び私たちの目の前にあらわれて、そして今、最前線にある私たちの指針として心に取り込まれる。どこかに帰ってゆくのではなくて、私たちの心に刻まれる。
私たちは、送り火を燃やすことによって、過去からの人類としての連続性に思いを致すことができるのかもしれません。そうして先人の偉業を想い、自らの生きる指針として行く。送り火とはそういう連環の象徴であると私は思いました。