熟読
一読することは、読了の満足を得ること。二読することは、一読の記憶を振り返りつつ進むこと。三読することは、二読の記憶をたどりつつ、新たな発見を得ること。こうして読み深めると、この書物にはこういうことが書かれていたという現実の思考と、書物との「連関のしおり」が生まれる。書物とはそもそも、過去の先人の膨大な思考過程を文字化して二次元化したものといえる。この文字を追い続けることで、文字が脳の神経回路に三次元展開されてくる。完全な三次元展開は難しいかもしれないが、書物に固定化された情報が、自身の思考過程に接続される。そうすると過去の膨大な思考過程の産物を自身の脳の外部記憶として役立てることができるようになる。これを熟読という。以前に役所に相談に行ったときに、職員の方が、厚生労働省労働基準局編の労働基準法 上下を活用して相談に応じて下さった。また同様に、労働基準法解釈総覧という辞書のような書籍を活用されていた。おそらく百回か、二百回程は読んでおられる様子。 書籍を読むことは、カンフーの形(かた)の練習のようであり、実践そのものではないが、おそらく実践すべきことに直面したときに、その形が即、役立てられるのだろう。 そうして考えてみると、幅を広げたり、とりあえず実践してみることは、尊い。何物にも換え難く生きた力になるうえに、現在進行形で人の役に立つことができる。それで対価を得て、生活ができれば、こんなに素晴らしいことはないだろう。書物に埋もれるだけで、いつまで経っても人の役に立てないのでは、生き甲斐も生まれてこない。しかし同時に99の無駄かもしれないが、必要な1の局面で適切な助言を行うためには、どうしても知識の習得が欠かせない。99の努力が欠かせない。両天秤のつり合いが必要だが、決して片手間では得られない熟読の自信を味方に付けて、前に進んで行きたいと願う。