衛霊公第十五(388)論語ノート
子貢問為仁。子曰。工欲善其事。必先利。其器居是邦也。事其大夫之賢者。友其士之仁者。
子貢仁を為さんことを問う。子曰く、工、善くその事を欲すれば、必ず利を先にす。その器は是の邦に居ればなり。その大夫の賢なる者に事え、その士の仁なる者を友とせよ。
子貢仁を為さんことを問う。子曰く、職人が善くその事を欲すれば、必ず品物を売って利益を先に考える。その売るべき器(子貢)は是の邦に居るではないか。その大夫の賢なる者に事え、その士の仁なる者を友とすることだ。
この章も解釈に迷います。「工」は発音が同じで字形が似ている「公」という文字の隠語ではないかとも思います。しかし、職人という意味に捉えて文意を考えてみましょう。
まず論語中に「利」という文字が使われるのは、この衛霊公第十五(388)を含めて里仁第四(068)「仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす。」里仁第四(078)「利を放いままにして行えば、怨みを多くす。」里仁第四(082)「君子は義に喩り、小人は利に喩る。」子罕第九(206)「子、罕れに利を言う。命と与にし、仁と与にす。」子路第十三(319)「速やかなるを欲するなかれ。小利を見るなかれ。」憲問第十四(345)「利を見ては義を思い」陽貨第十七(452)「利口の邦家を覆えす者を悪む」堯曰第二十(498)「民の利とする所に因ってこれを利す。」の九章です。これらは動詞としては「利益と考える。」名詞としては「もうけ。利益」という意味で使われています。陽貨第十七(452)では「すらりと運ぶさま」として口を形容する「利口」という用法があります。これにならうと衛霊公第十五(388)においても、「利」の原義である「すらりと運ぶ」という意味で、整頓する。使いやすいように整理するという意味に解釈することができます。しかし論語における他章との整合性から見て、「利とす。」という動詞の用法では、「利益とする」と考える方がよいと思います。
次に「器」です。論語の中で「器」という文字が使われるのは、衛霊公第十五(388)を含めて為政第二(028)「君子は器ならず。」八佾第三(062)「管仲の器は小なるかな。」公冶長第五(095)「女(なんじ)は器なり。」子路第十三(327)「器の小人」の五章です。これらは「こまごまとした実用に使われるもの」「うつわ」「器量」という意味で使われています。この衛霊公第十五(388)において、より具体的な「職人の道具」という意味に解することに対して、私は少し不自然な印象を受けます。
この章の従来解釈は、「職人は良い仕事をするために、道具を整える」「子貢はこの邦に居て、大夫の賢なる者に事え、士の仁なる者を友とせよ。」という構成になっています。つまり「職人=子貢」は「大夫の賢なる者」「士の仁なる者」を道具として利用して仁を行えという意味に解釈されています。
しかし私は、君子は「器」でないと言っている孔子が、子貢を「器」であると評価している論語の構成から、この章を解釈するべきであると考えます。そのために、この章においても「利」は利益、「器」はうつわとして読むことができるように句読の切り方を変えてみます。まず従来の「必先利其器。」「必ず先ずその器を利とす。」と読んでいるところを「必先利。」で切ります。すると「必ず利を先にす。」と読むことができます。必ず利益を先にするとは何でしょうか。それは職人がもの作りをする上では、それを売るために作っていることを自覚しているということだと思います。次に、残った「其器」を後に続く「居是邦也」とつなげて「其器居是邦也。」としてみます。「其器」とは公冶長第五(095)で示されている通り子貢のことだと解釈します。すると「子貢は是の邦に居る也。」と読めます。そして続く「事其大夫之賢者。友其士之仁者。」は、職人が自分の品物を売るように、子貢も是の邦で自分を売り込んで大夫の賢なる者に事えて士の仁なる者を友とするべきだと孔子が述べていると解釈できます。
つまりこの章は、孔子が子貢から「仁を為す」ことを問われて、「為す」とは実践であり、仕官して政治に携わることだと教えているのだと解釈できます。これは子罕第九(217)「斯に美玉あり。ひつにおさめてこれを蔵せんか。」「これを沽(う)らんかな。我は賈を待つ者なり。」と同じ趣旨を伝えています。孔子の教えは実践であり学而第一(014)でも「焉可謂好学也已。」「どうして(趣味のように)学を好むということのみで良いものか。」と述べている通りです。
子張第十九(478)にも「子夏曰。百工居肆以成其事。君子学以致其道。」「子夏曰く、百工は肆(し)に居りて以て其の事を成し、君子は学んで以て其の道を致す。」とあります。工は作ったものを、店で売ることによって自身のもの作りの生き方を実現しており、諸君は学ぶことで仕官の道が開かれるという意味ですが、子貢は修養を積んだ瑚璉(役に立つ人物)であり、仁を為す上では大夫の賢者に事え、士の仁者を友として「器」としての、ぶれを抑えて勤めることだというのが孔子の教えるところなのでしょう。