泰伯第八(189)論語ノート
曾子曰。以能問於不能。以多問於寡。有若無。実若虚。犯而不校。昔者吾友。嘗従事於斯矣。
曾子曰く。能を以て不能に問う。多くを以て寡(すくな)きに問う。有れども無きが若し。実てるも虚しきが若し。犯して校せず。昔は吾が友。嘗て斯(さ)きて事に従う。
曾子が言うには、自信の上に不能力を知り、可能性を拡げて弱みを減らす。安逸の過信なら無い方が良い。失敗で空虚さを知る方が良い。殻を破って成長すべき。昔、私たちは、そんな気概で臨んだものだ。
「以能問於不能。以多問於寡。」とは為政第二(034)にあるように、多くを見て、多くを聞いて誤りを寡(すくな)くするという趣旨でもあり、自信が虚栄心となって学ぶ姿勢を失うことのないようにとの指摘でもあると思います。それは八佾第三(055)において、孔子が太廟に入り、事ごとに問うて祭りの儀式を行ったことにも通じていると思います。
聞くことは礼であって当然のことだと理解すべきだと思います。それは恥ではありません。誤りを少なくして運営上の利益をもたらすものであり、自身の弱点を減らす方策でもあると考えるべきなのでしょう。そうして行動することで良い結果を得ることにつながります。実践の過程では困難に直面したり、失敗することで、裏付けのない自信は打ち砕かれて無いものとなり、充実を過信していたものが実は空虚だと実感することもできるという意味ではないでしょうか。そうして打ち砕かれるなら、自身の限界の壁を乗り越えて、新たな成長のために努力を始めることができるという意味を読み取ることができると思います。
本章のメッセージは、なかなか見えにくいものでした。「能力があるのに能力のない人に尋ねたり、多くを知っているのに少ない知識のものに尋ねたり。有るのに無いように装って、実力を空虚なものと装って、脅かされても反抗しない。それを理想にしたものだ。」という趣旨で読むと、何を言っているのか分かりません。本章で「有若無。実若虚。犯而不校。」の意味を良いものとして読むと、述而第七(172)の「亡而為有。虚而為盈。約而為泰。難乎。有恒矣。」との関連性はどうなるのかも気になりました。しかし両章を照らしてみると「有若無。実若虚。」とは理想を述べているのではないと思い至りました。
初めて取り組むことなどでは、自尊心があっても、周りに聞いて失敗のないように取り組むことが礼とされます。ここで礼とは悩まずに実践すれば良い定石とでもいう意味です。そうして実践した結果、「有若無。」有ると思った自信は無いもののようであり、「実若虚。」実力も空虚なものと思い知ることになるという意味が見えてきました。そして「犯而不校。」です。憲問第十四(355)に「子路問事君。子曰。勿欺也。而犯之。 子路、君に事うることを問う。子曰く。欺く勿れ。而してこれを犯せ。」とあります。論語において「犯」は三章のみに表れており、もう一章は学而第一(002)「有子曰。其為人也孝弟。而好犯上者。鮮矣。 有子曰く。其の人となりや孝悌にして、上を犯す者は少ないかな。」です。学而第一(002)においては、上に反抗するという意味で使われています。憲問第十四(355)でも「上に歯向かう」ことなのですが、君が道を外れかけた時には正しい意見を述べて反抗せよという趣旨だと思います。つまり「犯」とは必ずしも悪い意味では使われていません。そこで泰伯第八(189)における「犯而不校。」についても、「犯」は自身の狭い自尊心で制約された「殻を破る」という意味に理解しました。そして「校」とは「枠にはめる」という意味であるため、「不校」は「枠にはめない」ことになり、つまり「狭い自尊心で制約された殻を破って、自身を枠にはめない。」と解釈することができます。つまり、失敗を恐れず行動することで、自身の成長を図ることができるという趣旨に読むことができます。こうして本章の意味を再考すると、改めて行動を促す論語の精神が浮き彫りになりました。