1. 体当たりの正義

体当たりの正義

例えば電車でリュックを背負っている人がいる。邪魔だから体当たりしてもよいだろうか。例えば暴漢が襲って来るとして護身用スティンガーで殴ってもよいだろうか。駅の階段で上りレーンを下って来る人に対して一歩も引かなくてもよいだろうか。危険性を考慮した方が良い場合がある。孟子の「自反而縮雖千萬人吾往矣」「自ら省みて直くんば、千万人と雖も吾ゆかん。」という言葉を思い出した。

ここで疑問が起こる。なぜ「縮」を「直」と読むのだろう。いま「縮 直」と検索すると縮毛と直毛が表示される。つまり縮と直とは真逆の意味だと分かる。

縮は粛に通じており「自粛」=「自分を恐れる」という意味ではないだろうか。だとすると縮むことを直と解釈しなくても良い。

「自反自不縮、雖褐寛博、吾不惴焉、自反而縮、雖千萬人吾往矣」

自ら反りみて自粛まではしなくとも、私は褐寛博程度なら恐れなくても済むだろう。自ら反りみて自粛するならば、私は千万人相手でも立ち向かえるだろう。

つまり、この解釈こそが体当たりへの答えではないかと思う。

自ら省みて身の縮むような自己批判的理性を働かせなくても、私はカバンに体当たりすること程度は恐れなくても済むだろう。自ら省みて自己批判的理性に耐えるなら、私は千万人相手にも立ち向かえるに違いない。

義憤に駆られて過剰に振る舞うのではなく自ら省みることに注力すればよい。この章は褐寛博相手には粛は要らないが千万人相手には粛が必要だと述べている。面白いのは「自反而縮」という言葉であり、自分で帰って来られる人だからこそ「吾往矣」として往くことができるのだろう。