散髪の対価
散髪は1時間程度の時間を要します。例えば、散髪に4,000円を支払うとします。それは散髪屋さんの技術料や散髪屋さんの建物、備品などを利用させて頂くために時間単位での償却費を支払うということです。しかし、今まで自覚していませんでしたが、私が支払っている散髪の対価とはそれだけではありません。その1時間、私自身も散髪のために時間を消費しています。例えば私の人件費が1時間2000円とすれば、散髪の対価は合計6000円となります。仮に有給休暇を使って散髪に行けば、その時間は給料が支払われるわけですから、結果として私の人件費相当の2000円は企業が負担することになります。つまり私が支払う散髪の対価は4000円です。しかし、休日に散髪に行けば散髪の対価は6000円なのです。それだけ自分の時間の価値を認識する必要があります。
双方負担
このように、サービスの受け手側も時間を負担することによってそのものの価値が形成されるという物事は、実は多いのかもしれません。歯科治療。食事。映画鑑賞。鉄道。バス。インターネット閲覧。テレビ視聴。新聞購読。本。お菓子。…。
奇妙な感じですが、自らが関わらなければ成就できないことすべてが自らの時間も含めて価値形成されるものでしょう。
丸投げの先方負担
対して、こちらはお金を支払うだけで、大きく時間を節約できるサービスを受けることは、すべてが支払い代金だけで完結するということでしょう。洗車、宅配サービス、……。自分が一切関わらなくても代わりに物事を済ませてくれるようなサービスは、自分の時間負担がないことになります。
おかしな観点
翻って本当にそうでしょうか。例えば、次のような考え方があります。材料、設備、労働力をもって、労働を行い、その対価を得るとき。その労働の対価は、材料費+設備費+労働力の再生産費+利潤となるといいます。そして労働によって新しい価値が生み出されるといいます。それは、ちょっと勤め人の私には理解しにくい論理です。その利潤とは何なのでしょうか。ものの交換はその時々の需要と供給のバランスが平準化されるとき、等価交換に帰結するのではないでしょうか。
もしもそうであれば、利潤とは、材料費+設備費+労働力費をはじめに立て替えて支払い、人の役に立つ活動を展開したことに対する成果物。つまり、お金を人の役に立つように動かしたことに対する報酬。つまり計画し指揮し監督するという経営に対する対価ということになります。その経営という人間の知的生産活動を生み出すための生産費が利潤なのではないでしょうか。そして、それに加えてその資本が広く集められたものであれば、その資本の使用料も当然に含まれるのでしょう。
だとすれば、新しい価値を生み出す源泉は「労働」ではなく、「経営」なのではないでしょうか。すべての努力に価値があるのではなく、正しい方向での努力に価値がある。すべての労働に価値があるのではなく、正しい労働にこそ価値があるはずです。労働に正しさを与えるものは「経営」のはずです。ただし「経営」は経営者が行うものですが、経営者は現場の労働者も含めて事業を正しく管理できる人のことを指すはずです。そして現場の労働者が経営者であろうとするとき、経営革新が加速するように思います。
ものの値段
話が脱線したように思いますので軌道修正します。つまり、ものの値段とは、買い手側がその金額を出すに値すると判断して購入することで確定します。加えて、買い手側は、そのものを利用するうえで必要な時間を自ら追加で拠出しなければならない場合も多いということです。しかしそこまでしても売れるものを提案する力は、やはり経営力に掛かっているということでしょう。そして経営力は、労働の現場でこそ求められているものです。現場の労働者が経営力を発揮するためには、自己努力。勉強が欠かせません。時間は有限なのです。
結論
よって、散髪は有給休暇を取って平日に行きましょう。そうすれば見えざる自己負担なく散髪を割安に済ませることができます。そしてその時間を自己努力に割り当てることで、会社の経営革新の力となり、延いては社会が発展するのです。