1. 働く

働く

働くとは、生きるための協力関係を得ること。例えば世界に3人だけしか人がいないと考えてみると、生きるために必要な作業を分担して行うことが目に見えて理解できる。魚を取って来る。畑を耕してくる。調理する。寝床を確保する。そうして、生きるための協力関係を得て、そこで生きることが働くということだろう。これを現実に置きなおして考えてみると、生きるために必要とされる作業は無限に多様化するので、その分だけ働き方も多様になってくる。そこで生活の糧を得て暮らしていけるなら、それぞれに働いている満足感を得ることができるだろう。

しかし、人はより良く働きたいと思う。より多くの魚、おいしい魚をたくさん取りたい。より新鮮に提供したい。畑を耕すのなら、より安心なものを作りたい。より快適で安心なすみかを作りたい。それはまだ見ぬ相手か、目に見える相手に喜んでもらいたいと願う素直な気持ちの表れにほかならない。そうして働いて得られる賃金の高は、その労働の社会的評価を表す結果となる。

自分がよりよく社会に関わって行こうと願っても、現実に得られる賃金が少額であれば、そのような低い扱いに失望することもあるに違いない。自分が良かれと思って行うことでも、社会的にはまったく必要とされない結果を生むことも起こりえる。個人で事業を行う場合には廃業となり、就職しようと思っても職に就けないことが起こりえる。それでは暮らして行けないのであり、生活が途絶する結果を恐れてしまう。

また現実には、人生のある時点で恵まれたところに就職できなければ、結果的に同じ様な社会的な価値のある働きをしても、賃金が伴わず、待遇が低いまま過ごさざるを得ない場合もある。レールに乗り損なった不遇ということになる。また経営者に正当に評価されない不遇ということも起こりえる。その時、どうすれば良いか。転職すれば改善できるとは限らない。そのままでいても解決できるとは限らない。もしかすると、社会の構造が、不均衡な交換によって成り立っており、有利に成果物を得ることができる階層と、不利な成果物を得なければならない階層があることで、豊かさを享受できる階層が維持できているだけなのかもしれない。こうした、評価の不均衡のようなものは、人に嫌気を起こさせるに十分であり、信頼を無くして、会社を離れていくことになる。

そして常に自分自身は、社会との関わり方をより良いものとするために、自己努力を重ねたとしても、自分が提供できる価値の水準は自分の中だけに維持されて、自分の衰えとともに失われて、継承されないことになるだろう。もしも、より良く社会的な連携の中で働いていくことができれば、業務提供の水準や経験やノウハウは、新たな人に継承されていくことになる。それによって社会全体が、今の時代よりも、次の時代の人がよりよく生きるための経験の蓄積を得て、継続して行けることを意味している。しかし、そういう継承の努力や、人の正当な評価は、意識的に行われなければうまく行かないはずだ。そのように継承の努力や人の正当な評価を行うことは、経営の重要な要素といえるのではないだろうか。正しく実践できる企業は存続し、そうでない企業は廃業することで、淘汰されるのかもしれないが、社会全体としては、過去の経験をより良く蓄積して、事業活動を合理化し、効率化を図って、より良く社会に貢献し、より良く従業員に分配できる成長の好循環を進むべきだろうと思う。

ということは、あまり価値のない会社には長く勤めずに、できれば自分の働きやすい職場を探して、転職していくことも必要ということになる。しかし良い企業で働けるとは限らない。自分が継承や合理化を意識しながら、現在の職場で、よりよい変革をめざすことも、あって良いのかもしれない。行く先々が良いとは限らないのだから、今いる職場を良いものに変えていく努力か、悪あがきというものが、あっても良いのではないだろうか。そういう努力とともに、時間を自分の中に経験や知識として蓄えていく気概をもって臨んでいれば、そのうち道が拓けてくるのかもしれないのだから……。