天気の子20190810
2019年7月19日に上映を開始した新海誠監督の110分間の映画。他人の幸せと引き換えに自分が疲弊してしまうだけだとすれば、決して長くは続かない。多くの人の平穏のために、意識されることなく消耗していく自分を受け入れるとすれば、それは美談だろうか。かけがえのない二人が出会い、共に過ごす時間がずっと続いて欲しいと願う。その幸せが、ただ失われて良くはない。必要なものは再演ではなく、そもそも終わらせない信念の喚起。猛スピードで整えられていく大都会の平穏と引き換えに、消し去られる運命を受け入れてはならない。相応しく負担し合えないほどの調和なら、そもそも無くて良いはずだ。走り出せば、後押しするものが傍にいる。手を伸ばせば、絶対に取り戻せる。そんな新しい生き方の物語。
多くの現代人が自身の開花の可能性を心の中に仕舞い込んだまま、日常生活を送り、不遇に耐え忍んでいる。この映画は、そうした多くの人々に向けて自分のために生きれば良いという真っすぐなメッセージを送ってくれている。このメッセージが多くのひたむきな人の心に届くことで世界の形が変わるかもしれない。追い詰められる境遇を表すために拳銃を用いたり、多くの人の感情移入を得やすいように都会に出ようとする動機は捨象されているが、それらは映画の構成上の工夫に他ならない。ずっと後悔したまま生きてどうなるのだろうか。いま大切な人の手を離してはならない。そういう当たり前のことをはっきりと伝える映画であり、前作以上の社会的評価を受けることになるだろう。
劇中では、陽菜、凪、帆高が多くの人の力になり、願いを叶えて感謝される。社会の中でお互いに価値を交換しながら共存していくことの本質的な尊さが描かれる。しかしそうした等価の助け合いと信じていたものが、突如、人柱的な自己犠牲に置き換えられたとすればどうだろうか。就活中の夏美は、幾社もの面接で「御社が第一志望です。」と訴えて採用を勝ち取る努力を続けている。ある場面で須賀は、社会全体の調和が取り戻されて、ただ一人がその犠牲になるのならそれでもよいという趣旨の発言をする。しかし帆高は、「天気なんて、狂ったままでいいんだ!」と叫ぶ。自己犠牲の上に成り立つ「調和」を拒否する。これらは天気の話として描かれている。
特に終章の意味を考えるうえでは、あとがきと、野田洋次郎氏の解説が含まれている新海誠氏による同名の小説を読まないわけにはいかない。「大丈夫」とは、二人一緒にいれば、何でも乗り越えられるという経験に裏打ちされた確信なのかもしれないし、きみがいるから乗り越えられるという、そう思われる人になりたいという精神的な充足の意味なのかもしれない。そういう意味を紐解いてゆけば、自分自身が前に進むための選択の勇気をこの映画から引き出すことができるのではないだろうか。その核心を感じ取りたくて、映画館に通う人も多いに違いない。
確かに三年間雨は降り続いたが、陽菜は自分のことだけを願っていたのではない。帆高が生きる意味を教えてくれた。他人の幸せを願うことは必ず自己犠牲なのではない。経済法則には抗えないが、等価の助け合いを成り立たせる生き方は存在する。多くの人が二人の幸せを願わずにはおられないように、社会には、ひたむきさに応える反作用が存在する。特に二人の幸せを真ん中に置いて歩めば、大丈夫に違いない。新しい生き方が広がれば、この先変わるべきなのは社会そのものの方なのだから。