1. 微子第十八(467)N

微子第十八(467)論語ノート

子路従而後遇丈人以杖荷篠。子路問曰。子見夫子乎。丈人曰。四体不勤。五穀不分。孰為夫子。植其杖而芸。子路拱而立。止子路宿。殺鷄為黍而食。之見其二子焉。明日子路行以告。子曰。隠者也。使子路反見之。至則行矣。子路曰。不仕無義。長幼之節。不可廃也。君臣之義。如之何其廃之。欲潔其身而乱大倫。君子之仕也。行其義也。道之不行已。知之矣。

子路、従って後れ、杖を以いて、篠(しの)を荷なう丈人に遇う。子路問うて曰く、子は夫子を見たるか。丈人曰く、四体ありて勤めず、五穀分たず、孰をか夫子と為すや、と。其の杖を植(た)てて芸(うえ)る。子路拱して立つ。子路を止めて宿せしめ、鷄を殺し黍(きびめし)を為して食わしむ。これ、その二子見えんや。明日子路行きて以て告ぐ。子曰く、隠者なり。子路を反して、これに見(まみ)えしむ。至りて則ち行(さ)らんかな。子路曰く、仕えざれば義無し。長幼の節は廃(すた)るべからず。君臣の義は、これを如何ぞ其れ之を廃てん。其の身潔(いさぎよ)くせんと欲して大倫を乱す。君子これ仕うるなり。その義を行えばなり。道の行われざるのみ。これを知らせんかな。

子路は孔子に従っていたが後れ、杖を持ち、篠(しの)を荷なう丈人に遇った。子路、問うて曰く、子は夫子を見ましたか。丈人曰く、四体があって勤めず、五穀を分け合わなくて、孰を夫子とするのだろう。と、其の杖を真っ直ぐに地面に突きたてて農作業を始めた。子路は手を組んで敬意を表して立っていた。丈人は子路を止めて宿をとらせ、鷄を絞めて黍飯を作って食べさせた。これは、孔子と丈人が既にお互いを目にしており、丈人が孔子を重んじたことを意味せずして何であろうか。翌日子路は孔子のもとへ戻って告げた。子曰く、隠者だな。そして子路を取って返して丈人に見(まみ)えさせた。子路は到着して事を済ませて戻って来た。子路は丈人にこう言った。確かに仕えなければ義はありません。長幼の節を廃れさせることができないように、君主と家臣との間の義も、もしこれを廃てて仕えるならば、其の身を潔くすることを欲して大倫を乱すことになりましょう。確かに君子ならば仕えるものです。しかしそれは君主と家臣との間の義を行うためです。私たちが仕えないのは道が行われないからなのです。これをお伝えしておきます。

この章で大切なのは、「之見其二子焉。」の読み方でしょう。この焉字は文末にある時には、「A焉notA」「Aだ。焉んぞAでなかろうか。」という意味であり、「notA」が省略されていると考えます。この場面では、その法則に従えば、「これ其の二子は見(まみ)えた。焉んぞ見(まみ)えていないものか。」という意味になります。こう解釈すると、其の二子とは、子路が丈人に「子見夫子乎。」「子は夫子を見たるか。」と言っているように孔子と丈人を表すことが推測できます。これは、丈人が子路に対して宿を提供し、食事も用意して、もてなしたことからすれば、どうして丈人と孔子が見(まみ)えていないといえようかという意味になると思われます。従来解釈では、丈人が自分の二人の子供を面会させたと読まれています。もしも二人の子供を面会させたという意味で焉字を読めば「其の二人の子供を面会させた。どうして面会させないことがあろうか。」という意味になります。しかし、逆にどうして面会させなければならないかが、説明されていないので文意が保てないことになります。

次に「遇丈人以杖」についてです。これは「杖を以いる丈人に遇う」と読みます。さらに続けて「荷篠」が併記されているため、ここは「杖を以いて、篠を荷なう丈人に遇う」と読みます。この場合は、杖を持つことと篠を荷なうことは併記された別のことであって、杖が、篠を荷なうために使われるという意味ではないことに注意する必要があります。次に、「五穀分たず」についてです。五穀を分かつとは、当然、農民であれば年貢を納めることでしょう。つまり、五穀を分かたないとは生産に従事しないという意味でよいと思います。次に、「其の杖を植(た)てて芸(うえ)る。」についてです。「植(た)てる。」とは、「木を真っ直ぐに立てること。」です。つまり杖を真っ直ぐ地面に突き立てる意味です。そして「芸(うえ)る。」ですが、「芸(げい)」とは、植物を植えるという意味です。ここは他に読みようがないので、実際に杖を立てておいて農作業を始めたという意味に解釈すればよいと思います。篠(しの)とは細い竹の棒のことだそうですから、畑で蔓性の植物を植える作業をしている途中だったのかもしれません。次に「至則行矣。」についてです。ここは、従来解釈では「至れば則ち行(さ)れり。」として子路が丈人の家に到着した時には、丈人は去って居なかったとされています。しかし、至るとは到着することです。そして視点を到着した場所に移して「行く」というのは戻って来ることでしょう。現に「明日子路行」として戻ってくる意味に解釈されています。この箇所をもって子路が丈人に会うことができなかったとする理由はないと思います。次に「子路曰く」についてです。宮崎先生はこれ以後の文章は孔子が子路に託した言葉であって「子曰く」とする考えです。しかし私は、ここは「子路曰く」でよいと思います。その理由は文末の「道之不行已。知之矣。」にあります。ここは従来解釈では句読の切り方が「道之不行。已知之矣。」のようになっています。しかし私はそうではなくて「道之不行已。」「知之矣。」「道の行われざるのみ。」「これを知らせんかな。」と読むべきだと思います。まず「道之不行已。」ですが、これは憲問第十四(370)に「道之将行也。与命也。道之将廃也。与命也。公伯寮其如命何。」「道の将に行われんとするや、命と与にする也。道の将に廃れんとするや、命と与にする也。公伯寮、其れ命を如何せん。」とあります。つまり、この意味からすれば「道之不行已。」とは孔子たちは、仕えることができる君を求めてはいるが、その道が行われないだけであり、それは天命であるということなのでしょう。そして続く「知之矣。」は「これを知らせんかな。」と読み「孔子の言をお伝えします。」と解釈すればよいと思います。つまり子路は丈人に再び会って孔子の言を伝えて戻ったということでしょう。