1. 顔淵第十二(285)N

顔淵第十二(285)論語ノート

子貢問政。子曰。足食。足兵。民信之矣。子貢曰。必不得已而去。於斯三者何先。曰。去兵。子貢曰。必不得已而去。於斯二者何先。曰。去食。自古皆有死。民無信不立。

「子貢政を問う。子曰く。食を足らわす。兵を足らわす。民が之を信ずることかな。子貢曰く。必ず已むを得ずして去らば、三者を斯(さ)きて何れを先にせん。曰く。兵を去る。子貢曰く。必ず已むを得ずして去らば、二者を斯きて何れを先にせん。食を去る。古より皆死あり。民は信無ければ立たず。」

この章は、子貢が政を問い、まず孔子が「食を足らわすこと。兵を足らわすこと。民が政治を信頼すること。」として三つを切り離せない要素として答えます。しかし、子貢があえて「已むを得ず」として切り分けられない三つの内から去るとすれば何を先にしますか?と孔子に問います。この「切れないものを切り分けて」という子貢の認識を表す上では、読み方として「斯」の字を「近称の指示詞」としての「これ」ではなく「さく」という動詞と考える方が自然だと思います。

次に、食が足り、兵が足り、民が政治を信頼することとは、どういう意味なのかを考えます。まず食が足るということですが、同じく顔淵第十二(287)に「百姓(ひゃくせい)足らば、君孰れと与にか足らざらん。百姓足らずんば、君孰れと与にか足らん。」とあり、君主の食が足るということは、百姓の食も足りているという意味だと分かります。次に兵が足るという意味ですが、兵は兵隊としての訓練を受けた人の事だと考えられます。子路第十三(332)に「教えざるの民を以て戦う。其れ之を棄つると謂うなり。」とあるように、それが長期に亘るものか、短期のものかは分かりませんが、本来ならば少なくとも食料を保証して訓練する兵があるということを表していそうです。そのため兵を養うための食糧の余裕があって初めて兵を足らわすことができると考えられます。次に民が政治を信頼するという意味です。食が足り、兵が足ることで安定した政治を行い、民が之を信頼するという事がまず基本だと思いますが、その答えは学而第一(005)に「子曰く。千乗の国を道びくには、事を敬みて信あり、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす。」とあります。つまり学而第一(005)では事を敬しめば民から信頼されるという見本として、事業を節する。農閑期等の時期を見て民を使役する。という例が挙げられ、政を行うには民の立場に立つことが大切だとされています。これは、為政第二(017)「子曰く。政を為すに徳を以いる。譬えば北辰、其所に居て、衆星之に共うが如し。」と同じ考え方だと思います。

その上で三つの事が同時に揃えられない時に何を先に去るかを考えます。「民が政治を信ずること」は、為政者の心がけで実現できるものであり、三つを揃えられない要因は、主に食糧の不足ということになります。そのため、食糧の不足に対して何を行うべきかと考えると、まず食糧の余裕があって初めて養うことができる兵を去ることになります。次いでさらに食糧に窮することになれば、食を去る事になります。食を去るというのは、あくまでも顔淵第十二(287)の趣旨で、君主自らの食を抑えるという意味だと思います。そして兵もなく、君主も窮乏するような国になって例えば外国から攻められたらどうなるかと考えた時、「古より皆死ぬ事があった。しかし民の信頼が無かったら、それこそ国は成り立たない。」という事を述べているのだと考えられます。

この考え方は「孔子思想」として重要だと思います。孔子はまず、為政者が徳を以て国を治めることで国民がそれを信頼するという関係を前提にしているように思われます。この信頼関係が無ければ、外国から攻め込まれるまでもなく、政治が成り立たないと考えているのでしょう。ところが、現代では、まず警察力や軍事力を増強し、国民が信頼を寄せなくても武力を用いて国を治めるということになっています。