為政第二(033)論語ノート
子曰。由。誨女知之乎。知之為知之。不知為不知。是知也。
子曰く。由や。女(なんじ)に之を知るを誨えんか。之を知るをば之を知ると為し、知らざるを知らずと為す。是れ知れるなり。
孔子が子路に言った。由や。おまえに之を知るということを教えようか。之を知っているとは之を知っているということだ。之を知らないとは之を知らないということだ。知られるとはそういうことなのだ。
本章の従来解釈では、知っていることと知らないことを判別して、「無知の知」に至れば、さらなる努力の糧になるという趣旨に読まれています。しかし私は、あえてそうではなくて、本章は知の限界性を述べていると考えます。多くの人は「知っていることは知っているし、知らないことは知らない。知られるということの本質はそういうことなのだ。」と。つまり人は、「何でもは知らない。知っていることだけを知っているのだ。」と述べているのではないかと思います。
これは憲問第十四(369)で孔子が子貢に述べたことと同じ趣旨のように私は感じます。「子曰。莫我知也夫。子貢曰。何為其莫知子也。子曰。不怨天。不尤人。下学而上達。知我者其天乎。」「子曰く。我を知るもの莫きかな。子貢曰く。何すれぞ、其れ子を知る莫からんや。子曰く。天を怨みず。人を尤(とが)めず。下学して上達す。我を知るものは、其れ天なるか。」
孔子は学而第一(001)で人に知られなくても恨みに思わないことの立派さを述べており、学而第一(016)でも、人に知られないことよりも人を知らないことを憂うべきだと述べています。この例だけでなく、孔子は論語の中で何度も、身の程を知り自己成長のために努力せよと教えています。しかし、そうして不遇を自己成長の力に転化させても、結局、他人は自分の知っていることだけを知っているのであり、知らないものは知らないままです。雍也第六(123)の山川があるとは限りません。努力が報われるとは限らないのです。
しかし本当に不可欠なものは他人の認識によらず不可欠なものなのです。それが子張第十九(495)に鮮やかに述べられています。