1. 雍也第六(124)N

雍也第六(124)論語ノート

子曰。回也。惎三月不違仁。其余則。日月至焉而已矣。

子曰く、回や。惎(おし)えること三月、仁に違わず。その余則ち、日月(じつげつ)に至りしのみかな。

子曰く、回。おまえは教えること三月で仁の徳に違う行いがなくなった。その成長のあまりに、おまえは彼方にまで行ってしまった。

まず「回也。其心三月。」を「回や惎(おし)うること三月」と読むのは宮崎先生の説によります。しかし孔子は、弟子の誰に対しても面と向かって「三月で仁に違うことがなくなった」などとは言わないはずです。それなのに「回也。」と呼びかけているのは、後の文章と併せて読めば顔回の死に際しての孔子の弔辞ではないかと私は思います。

次に、「日月」の読み方です。私は「日月」とは「じつげつ」と読み、「日月至焉」は「日月に至った。どうして至らないことがあろうか。」という意味を表していると解釈します。つまり、三月で仁に違うことがなくなった顔回であればこそ、論理の帰結を導く「則ち」を伴って、「日月に至ったのだ」と述べていると考えます。

それでは、「日月至」とは何でしょうか。陽貨第十七(435)で陽貨が、優れた能力を持ちながら仕官しない孔子のことを述べ、「事に従うを好みて、しばしば時を失うを、知と謂うべきかといわば、不可なりと曰わん。」「日月は過ぎ去ってゆき歳月は我と共にあらず。」と述べています。日月とは、天体としての日であり月であると同時に、時間の流れとしての日であり月であると言えます。人々の頭上に日となり月となり形を変えて現れて常に過ぎ去って行くもの。過ぎ去っては現れることを永遠に繰り返して消え去らないもの。そして手の届かないものが日月です。また孔子は、子罕第九(221)で川の流れに、過ぎ逝く時間を見ています。このように孔子であっても時間の流れに逆らうことはできず、日月は過ぎ去って行きます。しかし、文王、武王の如き賢人の道は、広く人民の間に保存されて受け継がれており、その中から孔子が道を学びとったことを子張第十九(493)で子貢が述べています。つまり時間は止めることができないものであり、日月と同じ立場に立つことはできないが、死してなお、人々の記憶に残って受け継がれるという意味があるとすれば、「日月至」と言っても良いように私は思います。

この「日月」に関連して子張第十九(492)で子貢が「君子の過ちや、日月の食の如し。過てば人皆なこれを見る。更むれば人皆なこれを仰ぐ。」と述べています。また続けて子張第十九(495)でも子貢が「仲尼日月也。無得而踰焉。」「仲尼の場合は日月なり。得る無くして踰えん。」と述べています。子貢は、普通の賢者とは丘陵に登ることができる人のことを言うのだと述べます。その上で、孔子は日月に値する人であり「日月を得る無くして」、つまり実際に日月にまで登ることはないが「踰えん」、日月の領域に達しておられるのだと称賛するくだりがあります。子貢は、孔子を日月に例えて、あまねく人々の進むべき道を照らし導くことによって、人々が当然のようにその恩恵を享受しているという意味を込めて日月のようであると述べていると考えられます。

そして雍也第六(124)で孔子が述べている「日月至焉而已矣。」とは、功績という意味では無名で、活躍する場も得られずに早世した顔回でありながらも、三月で仁に違う行いがなくなるほど、良く孔子の教えを理解して前に進んだ弟子として、孔子はもとより孔子学団の門下にある者達の心の中で記憶として留まることだろうという程度の意味ではないでしょうか。

この章は、雍也第六(121)「哀公問う、弟子孰れか学を好むとなす。孔子対えて曰く、顔回なるものありて学を好みたり。怒りを遷さず、過ちを弐びせず。不幸短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ学を好む者あるを聞かざるなり。」よりも後におかれていることから、早世した顔回を想っての孔子の弔辞と読むことについては、唐突な解釈とはならないと思います。