為政第二(028)論語ノート
子曰。君子不器。
子曰く、君子は器ならず。
子曰く、諸君は使われるだけの器ではない。
この章は、論語の中でどのように解釈するべきか難しいものの一つです。器とは入れ物のことです。論語の中で「器」という文字が使われるのは、為政第二(028)を含めて八佾第三(062)「管仲の器は小なるかな。」公冶長第五(095)「女(なんじ)は器なり。」子路第十三(327)「器の小人」衛霊公第十五(388)「その器は是の邦に居ればなり。」の五章です。これらは「こまごまとした実用に使われるもの」「うつわ」「器量」という意味で使われています。
「不器」とは「うつわならず」と読まれていますが、可能性としては「うつわとせず」かもしれません。つまり、「君子は之を器とせず。」と読み、「諸君は自身を器の域に留めない。」という意味に解釈することもできると思います。つまり器は人に使われるものであり、諸君は自身を使われるだけの立場に留めておくことなく人を使う立場に立つべきだという意味です。例えば学而第一(005)「子曰く。千乗の国を道びくには、事を敬みて信あり、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす。」とあるように為政者は民を使うとあります。また、憲問第十四(376)「子曰く、上、礼を好めば、民、使い易きなり。」ともあります。つまり政治を行うにあたっては、人を動かし使うのが君子であるという考え方が背景にあると思います。しかし人を使うとは、人を都合良く利用するという意味ではなくて、結局は自分自身が仁の道を外れないことによって自ずからそういう立場に立つことになるという意味だと思います。
本章を、「諸君は人に使われる器ではなくて人を使う君子であれ」と解釈する上では、「器ならず。」でも「器とせず。」でも趣旨は同じです。いずれにせよ「器」という言葉は修養に励む弟子にとっては誉め言葉にはなりません。公冶長第五(095)で子貢が孔子に自身の評価を問います。孔子は子貢のことを「女(なんじ)は器なり。」と評価します。子貢は「何の器ですか。」と聞き返します。論語の読者としては子貢に対する思い入れがあります。子貢が「器」だとすれば、「器」とは良い意味なのだろうか。それなら為政第二(028)との整合性はどうなるのだろう。それが論語の読者としての悩みでした。しかし孔子の思いとして、「諸君は器であってはならない」のであって、論語を読む上では、この為政第二(028)をしっかりと受け止めることが必要だと思います。
私は、この章を子路第十三(327)の文中に置くのが良いと考えています。
子曰。君子易事而難説也。説之不以道。不説也。及其使人也。器之小人難事而易説也。説之雖不以道。説也。及其使人也。君子不器。求備焉。
「子曰く、君子は事え易くして説ばし難きなり。これを説ばすに道を以てせざれば説ばざるなり。それ人を使うに及ぶなり。器の小人は事え難くして説ばし易きなり。これを説ばすに道を以てせずと雖も説べばなり。それ人を使うに及ぶなり。君子は器ならず。備わらんことを求めんや。」ということです。つまり、君子は器ではない。人を使うための能力を身につけて欲しいというのが孔子の真意であると考えます。