平等
平等とは何か。平等とは等しく平らかなこと。人が生理的欲求の充足のためだけに存在し、生きているという事実から出発すれば、人類という生命体から見た個人などは、栗のイガの一つの尖端のようなものだ。一人一人が、かけがえのない大切な存在だという見方もできるし、それぞれにたいした違いもないものだと見ることもできるだろう。
人は、それぞれ生理的欲求充足のためだけに生きている。高度な食欲の充足や高度な性欲の充足などというものはわずかな個人差を除けば、区別するに足りない。食事をすれば食欲が満たされる。それだけの存在だ。一日一日が繰り返されてそして死んでいく。死ぬとは生理的欲求の充足をしなくてもよくなる日といえる。
しかし人は、個々単独で、いったい何を充足できる存在だろうか。一人で食事に必要な食材をどうやって調達できるものだろうか。常に多くの人が関わり合って社会が成り立ち、相互の協力によってのみ人の生理的欲求は充足できる。
このように、人が生きるためにやむを得ず必然的に協力することを愛という。人は一人では生きられず、必然的に協力しなければならない。愛が永遠というのは、そういう意味だ。
人は、他人から注目されたがり、必要とされたがる。それは、人が一人では生きられないからだ。現代は、多くの人を働かせることによって得られる富を、自分の生理的欲求充足に必要な量以上に自由に独占することができる社会だ。不安だというのだろうか。
人が、目隠しをされて、手かせをはめられ、耳の周りでラジオのノイズを聞かされ、行動が思うようにいかないような状況に置かれたらどうだろうか。思わず、それらの制約を取り除くために叫んだり泣いたり、暴れたり引っ掻いたりするかもしれない。人が、600万円も700万円もするような高級車に何故乗る理由があるだろうか。他人を働かせてお金を手にした人が、羨望の的になりたい、注目されたい。注目されるものを所有したいという行動を取る。結局それは社会との関わりを望んでいる。
しかし人は、自分を助けてくれる相手にしか本当の信頼を寄せることはない。ライフラインが閉ざされた大震災の直後、何も頼るものがない絶望的な状況下に、他府県から何時間もかけて水をもって駆けつけてくれた友人に涙を流して感動する。そういう本当の意味での助け合いに触れた時、その相手のことをかけがえのない人だと思う。
もっと当たり前に、給料から月々天引きされる源泉所得税も、日々の買い物で納める消費税も、それらの大半は社会の運営のために役立てられている。日々の当たり前の協力関係は意識されることはないが、確実に社会を成り立たせている。
結局、人は栗のイガのそれぞれの尖端のようなものであり、生理的欲求を充足するためだけに生きている。体の自由を奪われている人も、高級外車に乗る人も、なんらの違いもない。平等とはそういうことだ。